6/22
2つの三角コーンに掛かったバーに「これより手前は公道です」と書かれていた。駐輪スペースと歩道の区切り。「公道」というかっちりしていそうなものが、蹴れば飛ぶようなコーンで区切られているなとおもしろかったし、この境界線を持ち運べばどこでもこちら側が公道になり、あちら側はそうじゃなくなる。
読んでいた本の一文を読み間違えて「夜になりすぎる」というフレーズをつくってしまったが、心に響いたので書き留めた。
2つの三角コーンに掛かったバーに「これより手前は公道です」と書かれていた。駐輪スペースと歩道の区切り。「公道」というかっちりしていそうなものが、蹴れば飛ぶようなコーンで区切られているなとおもしろかったし、この境界線を持ち運べばどこでもこちら側が公道になり、あちら側はそうじゃなくなる。
読んでいた本の一文を読み間違えて「夜になりすぎる」というフレーズをつくってしまったが、心に響いたので書き留めた。
「横になりたいとは言うのに縦になりたいは聞いたことない」と言ったら、「寝たいなとは思うけど起きたいなとは思わないから」と言われて、妙に納得した。
渋谷の人混みがすごかった。スクランブル交差点を渡っただけなのに、いくつの写真フォルダに私が保存されたんだろう。
近所のスーパーの七夕飾りに「海と旅行にいけますように」と書いてあった。海は人の名前なのか、それとも海に行くのとは別で旅行にも行きたい人なのか、どっちなんだろう。もしかしたらgo on a trip with seaかもしれない、そうだったらおもしろくていい。あと用意されている短冊にはじめから「願いが届きますように」と印刷されていて、そこでお願いがひとつ消費されないか心配になった。
なんかいいなと思った景色が、写真に撮ったらぜんぜんそんなことなく思えた。
「誠に勝手ながら閉店させていただくことになりました」という貼り紙を見てちょっとかなしくなった。行ったことないのに、というか今日までそのお店のことを気にしていなかったくせに、誠に勝手にかなしくなっている。それと、よく考えてみたらお店が始まるときも勝手に始まってはいる。もしいつか私がお店をやることになったら「誠に勝手ながら開店させていただきます」って言うことにした。
夕方の雨が止んでいて風が気持ちよかったので、イヤホンをつけずに帰った。
いまだに道に引かれた白線の上を落ちないように歩いたりする癖がある、大人なのに。今朝は小学生が同じ白線を向こうから歩いてきたので譲ってあげた、大人なので。
現実味のことを「げんじつあじ」と読んでみたらおもしろかった。あんまりわかりやすい味ではなさそう。
渋谷のまんなかなのにトンボがいた。落ち着いて休める場所がないせいかフラフラしていた、とてもきびしそう。
緑茶の味がしないと言うので「色水ですね」と言ったらなつかしくて盛り上がった。色水って言葉としては巨大な概念なのに、ぜんぜん身近じゃなくてすこし変だなと思った。
花を買った。家にあるのは一輪挿しなのにバラ売りをしていなくて困った。花の話題で「バラ売り」とはややこしい。3輪のリシアンサスを買って、2輪をふつうのコップに挿した。
すこし遠くに移動して空を摂取した。摂取というのはけっこうそのままの意味で、地面に足をつけて視界をでっかい空で埋めるとだいじな栄養を得ている気がする。
参道に紫陽花が咲いていた。自然なのに青いところがどことなく現実っぽくない感じがして、不思議な情緒だなと思った。
お祭りの準備で通りに提灯が吊られていた。まだなにもはじまっていないけど予感の空気がすでにある。お祭りもいいけど準備もいい。
高校の教科書で読んだ山月記の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という言葉がそういえばしっかり記憶に刻まれていてときどき思い出す。
変すぎる夢を見た。あまりに変なので誰かに話したいと思ったが、共感する要素がひとつもない。夢ならそういうこともあるよねと驚きもきっとない。突飛な夢を見たときの気持ちって行き場がない。
朝見た小さいサングラスのおとしものが、夕方踏まれない場所に移動されていた。
歩道と車道のあいだの看板に「横断者注意」と書かれていた。車に向けて「横断者がいるかもしれないから注意してね」と言っているようにも、「横断しようとしているそこのあなた、危ないから注意してね」のようにも読める。これが注意喚起としていいかわるいかはわからないが、少なくともおもしろい。
雨の音をyoutubeで流しながら作業した。包まれる音って無音よりひとりの世界に入れる感じがあっていい。顔を上げたら外はぜんぜん晴れていて、得をした気分だった。
帰り道に蝉が死んでいた。蝉が早かったのか、夏が加速したのか、それより梅雨はもう明けたんだっけ。
きのう見た蝉がまだ死んでいた。そういえば夏のあいだに聴く蝉の声に対して、夏のおわりに見る死んだ蝉の数が釣り合っていない気がする。
美しさを限界まで煮詰めたような作品に触れると、心がそういうものしか受け入れなくなってしまわないかととても不安な気持ちになる。道に落ちているつぶれたお菓子の箱とか、公園の座っている鳩とか、あやしい広告とか、空とか地面とか建物とかをしっかり見て、このふつうの世界の愛おしさを確認した。
近くの幼稚園が出していた七夕飾りを見ていた。ダンスの上達やswitch2の当選にならんで、世界から戦争がなくなることのおねがいがいくつもあって泣きそうになった。
日比谷のビリヤニ屋さんに行った。水をひとくち飲むたびに注いでくれるので、だんだんおかしくなってきてお店の人と笑った。「もう大丈夫ですよ」と言ったら「外でたら暑いからいっぱいお水飲んでいって」と言われてうれしかった。また来たいなとおもった。ビリヤニもすごくおいしかった。
下りるときにばかり使う階段を今日たまたま上ったら、ぜんぜん知らない場所に来たみたいな感覚になった。
夕方、すこし先を歩いていた高校生くらいの集団から「ちーがーう、世界のはなし!」という会話の断片が聞こえてきた。世界を何と間違えられたんだろう。
知人が忙しいそうに探しものをしていた。声をかけようかと迷ったが、明らかに個人的な探しものなので自分にできることはたぶんなさそう、むしろ邪魔をしてしまいそう。こういう「できることはないし邪魔をしたくない、けど困っているあなたのことを無視したくはない」という状況でつかう言葉を持っていない。
先週買ってかばんに入れていたパウチののど飴が暑さで溶けてひとかたまりになっていた。ぷよぷよみたいだなと思ったし、ほんとうにぷよぷよだったらぜんぶ消えてておもしろい。
遠くのスカイツリーの下半分が雨雲で隠れていて、空に浮いた塔があるみたいだった。晴れた日に見るより幻想的で綺麗だった。
夢で知らない作品を見た。重ね塗りした絵の具を剥がしたり、また塗り直したり、それを目の前で繰り返している。その度に変化する草原がいきいきして見えたのと、山の青を剥がすとオレンジ色が現れたのがすごくよかった。
肌寒い朝だった。買ったおにぎりを公園で食べながら考えごとをしたり、考えごとをしなかったりして、円形ベンチの上を鳩が徒歩で2周するところを見た。
一緒に歩いていた友人が突然「“ある”ってことは知ってたんだけど——」と話をはじめて、自明じゃない主語をいきなり省略されたのがおもしろくて笑った。
防災の展示に行ったら人を救おうとするたくさんの本気の活動があって、その本気さに心が熱くなる感じがした。
もらったクッキーの表面に「COOKIE」という知っている情報が書いてあっておもしろかった。
すこし前に「こんなところにマジックバーなんてあったんだ」と思った気がするのに、今日同じ道を通ったらなくなっていた。さすがに魔法とかではないと思う。
曇っている夜の空を見て、意外と明るいなと思った。世界ってよく見たら意外なものばかりであふれている。
コンサートにいった。ほんとうにほんとうによかった。
昨日同じコンサートにいっていた人と話をした。「どこのなにがどれだけよかったね」とたくさんの共感をしあったが、どれだけ話してもまだ話しきれない良さが体内に残っている感覚がする。むしろ言葉にするほど昨日の体験が「言葉で語れる程度のよさ」になってしまう気もして、それはすこしこわい。体験をそのまま表すには言葉というのはあまりに不十分だと思ったし、そう言いながら日記を書いているのは変かもしれない。
珈琲の空き缶が昨日と同じ場所に転がっていて、不思議な安心感があった。私が寝てもこの世界は続いていて、昨日と今日がちゃんと連続しているひとつの実感というか、世界に対するちいさな信頼。
午前中、博物館に行って本を読んだ。おなかが空いてきたあたりで常設展をちょっとのぞいて帰った。
よく通る道の途中に地下から冷気が出ている換気口がある。その上に散歩中のしらない犬がうつ伏せに寝ていて、涼みながら尻尾を振っていた。いいねそれ、と思った。
投票は先週行った。かなしい人がいなくなったらいいと心から願っているが、そのために自分の何をどれだけ捧げているかと問われたら言葉に詰まる。けど少なくとも、負っている責任のことを意識しながら紙に文字を書いて、箱に入れた。
おみせに置かれていたノートに私のすきなラジオのことが書いてあったので、「私もすき!」と書き足した。
作業時間外の誰も居ない工事現場を見たらすべての作業車が完全に静止していて、時間が止まっているように錯覚した。そういえば記憶のなかのショベルカーはだいたいガシャガシャと音を立てて動いている。
「帰り道」はよく聞くのに「行き道」はそんなに聞かないので、帰りって行きよりも特別なのかもしれないと思った。
実在する犬のイラストが描かれたTシャツを買った。フィリピンのパングラオ島にいるトゥラという野良犬らしい。しらない犬だし、すごくかわいいかと言われればふつうだけど、物語がとっても見えて愛着が持てる。身につけたり身の回りにおくなにかを選ぶというのは「これから君に愛着を持っていくからな」という決定をすることかも。
すてきな映画の存在を知ったのに、もう上映をしていなくてかなしかった。たまたま知らなかったばっかりに体験できないことってなくならない。
小さいときに読んでいた長編小説を読み直している。展開も結末も知っているはずだけどほとんど忘れているので「もしかしてこの人って...!」と考察ごっこができて、非常にたのしい。
美容院で「肩が凝ってますね」と言われたが、これまで肩が凝っていると思ったことがなかったので、そうなんだ、と思った。私のどの身体感覚に「凝る」というなまえがついているのかそういえば教わってないし、考えてみれば「うれしい」や「かなしい」も教えてもらった記憶がない。
夜、空が爆発しすぎていて、風流をすこし通り過ぎているなと思った。
友人がなくなった。あんまり現実として受け止められていない感覚があったが、いつものグループの既読がもうつかなくなることを想像したときにとても胸が痛んだ。
「わたしやあなたの実態ってどこにあるんでしょうね、日々感じたり思ったりするその経験こそが実態なのかも」みたいな会話をした。こうやって日記を書いていて、一層そう思う。
つくっていた音楽がやっと完成した。
帰りに電車を乗り過ごしてまった。せっかくなので多めに歩いて帰った。こういう日常から偶然はずれる出来事があるとすこし得をした感覚がある。
日が長くなったな、と思ったら夏至はもう1ヶ月もまえに過ぎていた。日が短くなりはじめてからそんなに経っているという事実にすこしさみしいと思った。
たばこを吸って吐くというのは、ふつう匿名で共有されている空気に「私の肺を経由しました」という確定のラベルをつける行為とも読めるなと思った。私はたばこを吸わないが、それはすこしグロテスクであり、同時にかなりおもしろい。
エレベーターに乗ったら先に乗っていた人に「何階ですか」と聞かれた。空いていたのでぜんぜん自分でも押せたが、せっかくなので押してもらった。
「ほぼほぼ無音」という表現を見て、これは「ほぼ無音」よりも無音に近いのか遠いのかどっちなんだっけ、と思った。ちょっと考えて、もっとわからなくなった。
眩しかったので左手に持っていたネギで日差しを振り払ってみて、意味ないなと思った。
絵画の展示を見にいった。「花を描いてそれをただ花と呼ぶことができる、なにかの物語を語らせる必要はない」みたいな言葉が壁に書いてあった。だいじにしたいなと思ってメモをした。
駅の階段の「のぼり」と「くだり」のあいだに「ゆずりあいゾーン」と書かれていて、人間を信じているところがいいなと思った。
ある海外の方が自分の作品に対する想いを言葉や絵で伝えてくれた。それがほんとうにほんとうにうれしくて泣きそうだった。
音楽をききながらぼんやりと歩いていたら、急に琴線に触れた瞬間があり意識が引き込まれた。耳をすこしあずけておくだけで、心地よさを感じながらふと何かの想いを受け取れたりする、これってあまりに発明だと思った。
道の植え込みの淵にごみがきれいに並べられていた。これは美意識があると言うのか、ないと言うか、むずかしい。道にごみを置いていくのは褒められることではないけど、そこから見える人間のことは少なくともおもしろい。
発酵料理のお店に「ただいま発酵中」と書かれた板が置かれていて、これがやっているのか準備中なのか微妙にわからなかった。
顔を上げたらいつもより街に人がすくないような気がした。ただの気のせいかもしれないし、街の人の数を今日まであんまり気にしていなかっただけかもしれない。
バスですこし遠くの図書館にいった。本を読む人や勉強する人や漫画を描く人がいて、みんなそれぞれが別の集中をしながら1つの静かな空気を共有している。図書館のこの感じってカフェとも塾の自習室ともちがって案外ほかになく、とてもすき。
窓際で作業をした。雨が降ったり止んだりときどき陽が差したりして、空の情緒がめちゃくちゃでおもしろかった。
道路のアスファルトにけろけろけろっぴのシールが貼られていて、かわいくなっていた。
渋谷にハクビシンがいた、というか見た瞬間は何者と思った。「たぬきみたいな細長い動物」と調べたらどうやらそうらしく、この都会に人間以外の大きめの動物が住んでいるなんてと驚いた。
天気がいいし、そんなに暑くないし蝉も鳴いている。ずっと室内にいるのはもったいないなと思って、日が沈まないうちに外にでて地面を踏んで呼吸をした。
帰り道にハトとスズメが並んで落ち着いていた。ハトだけやスズメだけはよく見るが、並んでいるのは意外と記憶に無いような気がした。
知らない道を歩いていたらプールのにおいがした。ぬるめの冷たい水に首まで浸かったような感覚を一瞬だけ思い出した。
目的地に向かう途中、科学館があったので入ってみた。ウニの展示をやっていておもしろかったし、館内で少年たちがかくれんぼをしていていいなと思った。
西日に照らされた木の片側が透明みたいな黄色になっていて、その手前を飛んでいったカラスの影がとても濃く映った。どっちも綺麗だった。
ラジオを聴いていたら「夏は毎日暑いけど、外はきれいでうれしいですね」とはじまるお便りが読まれていていて、なんてすてきな書き出し、と思った。
おいしくてよく買っていたおにぎりがもう売られなくなってしまった。このとおり、世の中ってぜんぜん自分ためになんか回っていない。
夕方、いつもの時間に外に出たら暗くなりはじめていて、日が短くなってきたことを実感した。夜に切り替わる途中って空が地上に混ざっていく感じがする。
繁華街を歩いた。前にも横にも上にも、情報がぎゅうぎゅうと敷き詰められていて、いろんな方向からたくさんの熱を受ける感覚がある。おもしろいけど目はまわる。
1人で箱根にいって、宿に籠ってずっと音楽を聴く日にした。特別でないことに小さい特別を感じながら、その日々のなかに現れるとくに特別なことは、それはそれで大きい特別でもある。
明日投稿する音楽の予約をした。