9/13

これまで日記をつけながら、「自分が日記に書かない出来事」というのもぜんぜんある、と自覚をしていた。それは自分にとって大事なものを選択しているとも言えて、逆にいえばそうでないものを切り捨てていることでもある。「私ってこれを切り捨てるのか」「そもそも自分を忘れないために記録しているのに切り捨てていいのだっけ」そういう自問をずっとしていた。

「記録に残すことにした自分」と「記録しないものも含む実際に起きたすべて」のあいだには常に距離があって、その距離を意識して、それを埋めたり埋めなかったりする。というのが日記をつけるということなのかもしれないし、すべての創作はそうだと思った。

9/14

夕方、イヤホンで音楽を聴きながら歩いていたら、胸の内側が振動する感じがした。イヤホンをはずすと小さなお祭りの出し物で和太鼓が鳴っていて、この太鼓が響く感じが錯覚ではなくほんとうに物理的な振動によるものだということを、経験として実感した。

9/15

世界陸上というものがはじまっていることを今日になって知った。その情報について、街やインターネットで見聞きする可能性は少なくない程度にあったのだろうけど、ちょうどひとつも出会うことがなかったらしい。そういう偶然の連鎖によって、自分が「少数派の知らない側」になっていることはほかにもたくさんありそう。それと、だいたいの競技は陸でやっているので「陸上」という言葉はちょっと変だと思った。

9/16

マグリットの絵《9月16日》がタイムラインに流れてきて目が止まった。月が木の手前にある、たったそれだけの仕掛けなのに、目が離せなくなる強烈な引力を感じた。忘れかけていたけど、私が創作と呼べるものをはじめたきっかけのひとつとしてマグリットの絵に出会ったことはとても大きい。思い出せてよかった。

9/17

「文章に起こすことってスポットライトを当ててしまうから、さりげないシーンを描写しづらい」と言っている人がいて、そのとおりかもと思った。さりげなさをさりげなさのまま取り扱うことはむずかしい。

9/19

天気予報に「あす秋くる」と書かれていた。季節のことを客人みたいに言っていておもしろかった。

9/20

静かな通りを歩いていたら上の方で電話が鳴った。風の音と合わさって周辺に響く感じが心地よかったのと、どこかに窓を開けている部屋があって、そこに在る生活がこちら側に滲み出ているような感じがして、いい空間だなと思った。

9/21

偶然、個展がやっているのを見かけた。ノスタルジーというテーマに惹かれたので入ってみたら、化石がたくさん展示されていた。こうやって「ノスタルジーです」と言われて化石を見ると、そこに長い物語が凝縮されていることに自然と意識がいって心が反応する感じがする。もし「化石です」と言われて見ていたら「化石だ」で終わっていた気もする。

9/22

近くの学校で運動会の練習をしていた。最後に全力で走ったのはいつだったっけと考え、思い出せないくらいには昔だなと気づいた。

辛くも甘くもないカレーはなんて言えばいいのかなと思った。

9/23

今年も蝉がいなくなるタイミングに気づけなかった。

9/26

近くのお店の入り口に「今日はすこし暑いですが、秋の風がもうすぐやってきます」という手書きのボードが掛けかられていて、行ったことはないけどすこし好きになった。

9/27

信号待ちの人混みにアゲハチョウが入り込んできた。しばらく人の隙間を飛んで注目を集めたあと、向こう側に去っていった。それに誘導されるみたいにみんなも道を渡りはじめて、なにかの演出のようで素敵に見えた。

集合時間より30分早く着いてしまったので「早く着きすぎてしまいました」とメッセージを送った。送ってから、「着きすぎる」の部分が「すごく着いている」ようにも読めて変な日本語だなと思ったので、それも送った。

9/28

ガチャガチャのお店に行った。両替機で一万円札を両替しようとしたら、ボタンに「100円に両替」としか書かれていなくて、100枚出てきたらどうしようと不安になった。不安になったと言いつつ、ほんとうにそうなったらそれはそれでおもしろいとは思っていた。

9/29

下を見ながら夜道を歩いていたら、顔の高さに大きな彼岸花が咲いていた。人かと思って一瞬どきっとした。

9/30

駅で献血の募集をしていた。呼び込みをしている人が持っている旗に「眺めがいい!」と書かれていて、めずらしい訴求、と思った。

午後5時に外に出たら夕方を濃縮したみたいな匂いがしていてうれしかった。

10/1

長い下り坂にバスが停車していた。何もしていなければ重力に従って走り出すはずの大きなエネルギーがそこに留められているという状況がすこし怖かった。

10/2

知らない人が、見るからにおめかしというような服装で、見るからに楽しそうな足取りで歩いていた。どこに行くのか知らないが、楽しみな気持ちを勝手にすこしもらった。

10/3

商店街を歩いていたら強いバニラの香りがして、高校生のときによく行っていた古着屋とおなじだ、と思い出した。

10/4

前に住んでいた街に行った。用事はすぐに終わったが、夕方までふらふらと滞在していた。この街と路線のことがほんとうにすきなので、行くだけでうれしいし、居るだけでうれしい。空は曇っていて、お昼すぎには雨が降ってきたけど、それを超えてぜんぜんうれしい。

10/5

焼く前の秋刀魚を見て「おいしそう〜」と言っている人がいて、相当な目利きかもしれないと思った。

10/6

これくらいの時期に半袖を着るべきか長袖を着るべきか、ずっとむずかしい。私は最近まで夏を経験していたので、暑さのことは鮮明に思い出せるが、寒い日々のことはもう何ヶ月も前なのでぼんやりとしか想像できない。このせいで暑さと寒さは永遠に平等な評価ができていない気がする。

10/7

いつも通る道の幅があきらかに広くなっていた。工事されたのかなと思って昔の写真と見比べてみたら、脇に生えていた木が無くなっただけだった。あいかわらず記憶はあてにならない。

同時に世間では動画もあてにできなくなっていて、いよいよ私たちは何を信じればいいのでしょう、と半分わかりきった会話をした。

10/8

最近「日記」についてよく目にするようになった気がするが、そういう世の流れがあるのか、私が意識するようになっただけなのか、その両方なのか、わからない。

夜道を歩いていたら白い小さい蛾が近づいてきて、5メートルくらい一緒に歩いたあとどこかに飛んでいった。どちらかといえばかわいかった。

10/9

自宅から駅に行くにはいくつかのルートがあるが、そういえばどの道を使うかとくに決めたりしていないな、と思った。角に来るたびに曲がりたいかどうかについて一瞬考えて、ちょうど曲がりたいなと思ったら曲がっている。

10/10

週末に会う友人とその日の予定について話していたら、「ランチの時間ちょっと伸びるかもね、話すのってけっこう面白いじゃん」と言われた。話すことのおもしろさについて改めて言及しているのが妙におもしろかったし、私も話すことってすごくおもしろいと思う。

10/11

すこし遠くの街のスーパーに行ったら、「19年間ありがとうございました」の文字とともに大きなメッセージパネルが設置されていた。「ハンバーグが大好きでした」「プールの帰りにいつも寄ってました」「パンは米粉パンが一番」などの具体的な思い出や、「本当に本当に寂しい」「悲しくて吐きそうです」といった気持ちが溢れた言葉がたくさん書かれていて、どれだけこのスーパーが人々の生活そのものだったかがすごく伝わってきた。ちょうど買い物に来た人が「え〜、泣いちゃう」と顔を押さえながらつぶやいて、私も泣きそうになった。

10/12

とある展覧会を見ようと美術館に行ったら、館内が人でぎゅうぎゅうだった。きびしいかも、と思って引き返して、代わりに近くでやっていた絵本の展示に行った。空いていてとても気分は落ち着いて、目的の展示は見れなかったがなんとなく満足した気持ちになった。

10/13

知らない人とボードゲームをした。ゲームは盛り上がってとてもたのしかったが、案外仲が深まるような感じはせず、それはそれで居心地がよかったというような不思議な空間だった。

歩道の脇にある低めの台の上に大きめの葉っぱが1枚と、その葉っぱの上にどんぐりが1粒置かれていた。ぜったいに作品だ、と思って写真を撮った。

10/14

買ったお弁当に「必ず温めてください」と書いてあって、温めなかった人にはどんな危険が降り掛かるんだろうと思った。

夏が終わりそう、と思っているうちに秋が終わりそう。

10/15

近くの交差点に元気がない向日葵があった。たぶん元気なときもあったのだろうけど、それに気づくことなく夏のピークは過ぎてしまっていた。そういえば2,3年くらい元気な向日葵を見ていない気もする。

10/16

道の端にさくらんぼが1つ落ちていた。さくらんぼはバラで買わないし、クリームソーダから持ち出したりもしないだろうし、どこからやってきたのだろうと不思議に思った。

10/17

数日ぶりに晴れだった。日陰が昨日の雨で湿っているのに、空は明るくて日差しも暖かい感じがすこし嘘っぽく見えて、その嘘っぽさがすごく現実らしくていいなと思った。

住宅街を歩いていたら、金木犀の香りとどこかの晩御飯のにおいが共存していておもしろかった。

10/18

フランス映画を見にいった。すごくよかった。これまでそんなに映画を見てこなかった人生で、今日になってはじめて「映画っていいものなのかも!」と本心で思った。たぶん多くの人にとってあたりまえのそれに気がつくのに随分と時間がかかった気がするけど、とにかくいい日だった。

10/19

博物館に行ったら太陽の専門家の方が講義をやっていたので聴いた。太陽の中心で生まれたエネルギーは、表面に到達するまで数十万年かかるらしい。いま私が浴びるこの光や熱が数十万年前の太陽で起きた出来事と結ばれる因果だと思うと、途方もない気持ちになった。

10/20

街灯の柱に片方だけの靴が結ばれていた。やさしい誰かの存在がうれしいなと思ったのと、目線の高さに靴があるのはめずらしいなと思った。

10/21

急に寒い日だった。お昼に外を歩いていたら半袖の人がいてさすがにきびしそうと思ったが、気持ちはとても分かる。

あと一回くらい暑い日がくるんじゃないかと思わないこともないが、勘で衣替えをした。

10/22

夢の中で「機々も機も」という言葉に出会った。知らない言葉だったけど、文脈から想像するにたぶん「ここ最近だいたい毎日(抜けている日があることを強調したニュアンス)」みたいな意味だと思う。目が覚めて検索してみたら案の定そんな言葉はなかったけど、代わりになる良い日本語も思いつかない。

10/23

薄手の長袖がちょうどいい時期ってもしかしてもうなくなってしまったのかな、1回も出番がなさそうな服があるのだけれど、と思った。

10/24

自分が不快になるような考えごとを、そういえばあんまりしていない気がした。不快にならない考えごとというのはたぶん、自分のなかですでに固まっていることとか、考えれば折り合いがつけられそうな気がすることとか、そういう範囲にあるものなのかなと思う。これがいいことなのかよくないことなのかはちょっと難しい。

10/25

早起きしてすこし遠くの街で映画を見た。すばらしかった。映画館のポップコーンってぜったい8分の1くらいでいい気がする。

10/26

庭園があるお屋敷で科学と芸術に関する展示がやっていた。科学も芸術も趣がある空間もすきなので、すごくよかった。

アクリル素材できた明朝体の「推」が売っていたので買った。漢字って造形が美しいのにいつも見ることしかできないので、こうやって実体として存在して触れることができるというのはかなりうれしいし、推しのアクスタの概念みたいなのもおもしろくていい。

10/27

広場のベンチのうえに銀杏がたくさん散らばっていた。水玉みたいでかわいいなと思ったが、罠みたいでちょっとあぶない。

10/28

ハロウィンの飾りつけをしている家があった。ポップなおばけやミイラのキャラクターが壁に貼られていてかわいかったのと、その向かいにお墓があるのはほんとうのハロウィンみたいだなと思った。

10/29

あんまり使ってないSNSアカウントが乗っ取られた。ようすがおかしいことに気づいた友人がすぐに教えてくれたおかげで大変なことになるまえに取り返すことができた、よかった。けっこうこわかった。事情の説明と謝罪をしていたら「乗っとったやつ、呪っておきました!」と言ってくれた人がいて、やさしさの距離感がとてもちょうどよくてうれしかった。

10/30

数人で中華料理屋にいった。頼んだ炒飯が「炒飯です」ではなく「大盛りです」と運ばれてきて、量で呼ばれているのがおもしろかった。

10/31

きのう、お酒に酔った様子でほとんど寝ながらふらふら歩く人を見た。私はお酒を飲まないので「お酒でふらふらするのは平衡感覚の制御が弱まっているからだ」と勝手に想像していたけど、もしかして単に眠すぎるだけなのかもしれないと思った。そのことを知人に話して、ちがうよ、と言われた。

11/1

友人から空の写真が送られてきた。雲について「こんなかわいいものが浮いてるのうける」と言っていて、いいなと思った。いくらでも送りつけてほしい。

11/2

美術館にいった。巨大な肖像画は迫力があっていい。数メートル先まで及ぶ引力がほんとうに存在するみたいに惹き込まれるし、人物がこちら側を見ていればなおさら目が離れない。

誰かの爆破予告で文化祭が中止になったニュースを読んだ。すごくかなしかった。

11/3

小籠包のお店にいった。テーブルの端に食べる工程の書かれた指示書が置いてあって、私はそんなに小籠包慣れをしていないのですこし緊張した。

大学芋をつくった。ふつうだった。

11/4

自分のカレンダーを見たら、あさっての午後に「おねがいをする」とだけ書かれていて、なんのことかぜんぜん思い出せなくて困った。困らないかもしれないので、正確には困る可能性がある。

11/5

日記を書いている人と日記について話した。日記はあくまで「日を記す」という単なるフォーマットのことであって、「それが自分にとっての何か」「だから何をどう書くか」「何を書かないか」はぜんぜんちがっていた。とても興味深かった。

外に出たら空気が冬みたいだなと思った。そのあと、ニット帽とマフラーをつけている人を見て冬だなと思った。

11/6

大通りを歩いていたら、たこ焼きのお菓子みたいなにおいがした。その正体が何なのかはわからなかったが、少なくとも私は「たこ焼きのにおい」と「たこ焼きのお菓子のにおい」を区別しているということがわかった。

11/7

本屋にいった。買いたいと思っていた本がぜんぜん見つからなかったので立ち止まって調べたら、発売日は来週だった。それはそれとして読みたい本が目に入ったので、それを買って帰った。

風が強くて、たくさんの落ち葉が道を擦って飛んでいくカラカラという音が心地よかった。

11/8

一日中歩いた。「いしスイートポテト〜」と言って焼き芋を売っている車がいたことと、「ぶんぶんぶんはちがとぶ、でしょ?」と喧嘩している親子がいたことがおもしろかった。パーキングの「空」の表示が「蛍」に見えたのは疲れはじめかもしれない。公園の少年が「ブランコで勝負しよう!」と言っていて、それはすごくいいねと思った。

11/9

駅のホームに紙パックの飲み物を売っている自動販売機があった。そのなかに見慣れない乳酸菌飲料が3つあったので、3つとも買って、家の冷蔵庫にならべた。

11/10

読んでいる本に「相槌を打とうとする」という言葉があった。「うとうと」という音が含まれているのと、相槌の動作自体が眠たそうにも見えて、2つの意味でうとうとが入っていておもしろいなと思った。

11/11

自分のなかに譲れないいくつかの「芯」みたいなものがあって、その芯に対して一貫性を保った人間でいたいという欲求が根っこにある。同時に、そもそもすべての言葉や行動に一貫性をもつことは不可能だったりもして、そのときに発生する不協和を受け入れる心の成長というか、その芯をもっと大きく捉えなおす真剣な向き合いみたいなことが、ときどきだいじかもしれない。歩きながらきのう聴いたポッドキャストを反芻して思った。

11/12

酉の市で屋台がでていた。屋台って見るだけですこし楽しい。幕に書かれた「こょちななば」がかわいくてけっこう可笑しかった。

11/13

広場の中央に噴水があって、そのまわりを少年が走って7周していた。私も歩いてみたら1周はちょうど40歩だったので、1歩1メートルとすると合計で280メートル、なかなかの距離だった。

11/14

「この曲は小さいときによく車で聴いていたから好き」と言っている人がいた。「好きな音楽を好きな理由」を聞かれたときに、音楽の要素ではなくエピソードが語られることってけっこうある気がする。

11/15

博物館の年パスを買った。年パスを持つと居場所が1つ増えた気持ちになり、居場所が増えると日々が豊かになる予感がする。

外で本を読んでいたら小さい虫が止まった。翅を透過した模様付きの影がページに落ちて綺麗だった。

11/16

人気のドーナツ屋の入り口に「ただいま完売中」と書かれた看板が立てられていた。「完売」に「中」がついているのはすこしめずらしい。似た言葉なのに「満席中」は言えないような気がするのはおもしろい。それと、これを書きながら「完」と「売」という字が実はほとんどおなじパーツで構成されているということを発見した。

11/17

道にグミが落ちていた。私は落ちているグミを見かけるたびに写真に撮っているので知っているが、グミはお菓子のなかでいちばん道に落ちていることが多い。これはまだ誰もとっていない統計だと思うし、とる必要もないと思う。

11/18

そういえば、フェンスや電柱からすこし距離をとって歩く癖がある。「先端が怖い」というほどではないが、もしかしたらフェンスや電柱から針金がたまたま飛び出ていて刺さるかもしれない、という小さい怖さが自分のなかにいる。

11/19

青いイルミネーションを見た。寒色の光源というのはどちらかといえばめずらしいので、どちらかといえばうれしい気持ちがした。

11/20

考えごとをしているときにメッセージがきた。ちょっとした確認の連絡だったので返信はほとんど指にまかせていたら「わたしわ大丈夫」と書いて送信していた。意識で繋ぎ留めていなければ私の頭と身体はばらばらになってしまうのかな、と想像した。興味深くもあり、こわくもある。

11/21

知人から夕焼けの写真が送られてきた。ちょうど手が離せなかったので数分ほど経ってから窓の方向を見てみたら、もうほとんど夜になっていた。夕焼けってなんとなくもうすこし長いような気がしていたが、そんなことはないみたいだった。

11/22

ベンチで本を読んでいたら、隣に座っていた知らない人に「なに読んでるの?」と声をかけられた。本の説明を軽くして会話は終わったが、見られていたと思うと急に自分の姿勢や所作が気になってくる。意識が散らかって視線が文字を滑っていく感じがする。まあいいか、と思って、しばらく半分読むふりみたいなことをした。紙の白ってけっこう眩しいなと思った。

11/23

youtubeでたまたま出会った曲がすごくすてきだった。発見できてうれしかった。この人のほかの曲も聴きたいなと思ってアカウントを辿っていたら説明欄に「AIによる作曲」と書かれていて、この心はいったいどこに向けたらいいのだ、と思った。

11/24

公園に「鳥獣保護区」と書かれた看板が立っていた。そこに寄りかかっておにぎりを食べている人がいて、この人が保護しているみたいでおもしろかった。

11/25

「勉強を泣きながらしています」という自己紹介文を見た。それしか書いていなかったが、この人の書く文章はたぶんすきな気がする。

11/26

「ありがとうございます」と「ありがとうございました」の違いをそういえばちゃんと説明できないし、考えてみればそもそも私の取る行動や発する言葉のほとんどが「使えるけど説明できないもの」でできているかもしれない、と思った。それは微妙にすごいことな気がした。

11/27

「だるまさんがころんだ」という遊び、オニをタッチしたりそもそも動くことによる得がないし、動かないことによる損もないので、実はけっこう高度な遊びだと思う、という話をした。

11/28

散歩をしている犬のリードに絡まっている人がいた。

11/29

歩いていたら線香の匂いがして「あっ」と思った。明確になにかの記憶が想起されたわけではないが、思い出の気配のようなものだけが立ち上がった感じがした。それが自分の実体験にもとづいた気配なのか、そうじゃないのか、考えてみたけどわからなかった。

11/30

すこし風があって、紅葉した巨大な木から黄色の葉が落ち続けていた。しばらく見ていたが止む気配はなく、あっという間にぜんぶ無くなってしまわないことが不思議だった。1本の木が持っている葉は想像しているよりずっと多いらしい。